表の中に「百日紅」・・号とあるのは、当該「百日紅」に詳しく書いてあるという意味です。
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時代 西暦 和暦 できごと






境内のイチョウは、樹齢推定600歳といわれています。
寺の紋はイチョウの葉の巴印。
寺の創建のときはすでに大きなイチョウがあったとしたら、この頃に植えられたことになります。
(参)「百日紅」19号

1480 文明12年 船戸左衛門尉次正(ふなどさえもんのじょうつぐまさ)によって長谷寺が創建されました。

寺伝によると船戸次正は、細川の家臣とされています。主君の仇を討つべく、大和の長谷観音を信仰し、願を立てていました。
不思議な縁で長谷観音と同じ木の、木末(こずえ=梢=先の細い部分)に彫られた観音像を授けられ、これを自分の屋敷の裏山の中腹に安置しました。これが長谷寺の濫觴です。
当時の阿波の守護は細川氏でした。応仁の乱がとりあえずの収束を見たのが1477年。細川勝元が死んだのが、1473年のことですから、勝元の家臣だったのかもしれません。
はじめは「木津江寺(こずえじ)」と呼ばれました。
「木津の入り江の寺」、そして「梢」の部分で作られた観音さんのおわす寺という意味もあったのでしょう。
(参)「百日紅」15号


1510 永正7年 「長谷寺」という文字が史料に残る最も古いものが、この年の法要で供養した過去帳の記録です。周辺の寺が組織され、集って法要を始めていたらしいことがうかがえます。
この法要の3度目の会場として、この年に長谷寺の名前が出てきます。
2年後の永正9年も、長谷寺で行なわれました。
ただこの史料は江戸時代の写本で、残念ながら当時のものではありません。
この過去帳は、鳴門結衆の大法会の当番寺院が毎年引き継いで保管しています。
(参)「百日紅」35号


過去帳


















16世紀中頃 「阿波三好記大状前書」という史料によると、この頃の長谷寺は1丁7反の屋敷地に大規模な伽藍と堂宇を持ち、7つの末寺を持つ寺院だったらしいことがうかがえます。
三好氏といえば、細川氏のあとを襲って阿波を支配した一族で、三好長慶はひと頃京都で、将軍に代わって政治の実権を握っていました。
彼に代わって京都で権力を握るのが、長慶の家臣松永久秀、そしてさらに織田信長と続きます。
長谷寺はその三好氏の取立て寺院として隆盛を向かえます。
(参)「百日紅」16号


三好長慶

1582 天正10年 本能寺の変で織田信長が滅んだ年です。
土佐の長宗我部元親はこの年、一気に阿波に攻め入り、長谷寺の西にあった木津城を攻め取りました。このときの戦いで、長谷寺は灰燼に帰したと伝えます。
長谷寺には、これ以前の記録も遺物も一切残っていません。戦闘の激しさをうかがわせます。


木津城があったとされる現在の場所

1585 天正13年 羽柴秀吉によるいわゆる「四国征伐」で、弟の秀長を大将とした羽柴軍が四国に攻め入り、木津城を攻めました。
長宗我部は、これを迎え撃ちますが、わずか8日間で落城します。
長宗我部は、木津城を補強するのに、土佐独特の方法を用いたらしいことが、最近の発掘で明らかになりました。
このときの戦いで長谷寺が焼け落ちたという可能性も、むろん否定はできません。

この戦いに功のあった蜂須賀に阿波が与えられたのもこの年。
いよいよ蜂須賀さんが乗り込んできました。ときの蜂須賀家当主は家政。この家政が徳島藩の初代藩主です。太閤記でお馴染みの蜂須賀小六は彼の父親です。


木津城補強のあと
1598 慶長3年 蜂須賀家政により駅路寺の指定を受けます。
駅路寺は阿波藩独特の制度で、藩内主要街道に沿った真言宗8ヶ寺がこれの指定を受けました。
旅人たちの便宜を図るとともに、不審な旅人などを監視することもまた、駅路寺の重要な任務だったといわれています。
右の写真はこのときの文書です。経費として十石が付与されました。この文書は鳴門市文化財に指定されています。「茂成」は家政の別名です。
徳島藩内の駅路寺の配置図です。右上に長谷寺があります。

伊予に通じる街道と、土佐に通じる街道に、だいたい等間隔に配置されているのが分かります。大人がほぼ1日で歩く距離なのだそうです。詳しくは(参)「百日紅」29号


駅路寺文書 ※有形文化財(1960年指定)



駅路寺碑







1601 慶長6年 撫養城主益田大膳によって観音堂や金毘羅社などが
再建されます。
本堂(方丈)が再建されたのもこの頃です。

1641 寛永18年 駅路寺としての定書が、藩命という形で作られました。
キリシタンや疑わしき者の宿泊を禁じています。署判の「忠英」は3代藩主です。
1661 寛文1年 蜂須賀光驍ノより観音堂が再建されます。
慶長6年のものは急ごしらえのものだったのでしょうか。
観音堂は裏山の中腹にありました。
現在の観音堂は、明治に移築したもので、建物は当時のものです。

写真は観音堂が建っていたと推定されるあたり。シートがかかっているのは土俵で、秋に子ども相撲が行なわれています。


こんぴら社・角力の絵が描かれている

「木津上浦(阿波名所図会)てうこく寺・
かんおん堂」、とある。
1671 寛文11年 本堂(方丈)が再建されます。
これが旧本堂で、1985年(昭和60年)の現本堂の再建まで300年余りを生き続ける事になります。



旧本堂
1688 元禄1年 薬師堂建立
17世紀の前半には、諸堂の再建や建立が続きました。

年ごとに書き継がれる過去帳が書かれ始めたのもこの頃です。
宗旨人別帳が作られ、庶民が檀家として位置づけられます。
現在の記録である人別帳に対し、過去の記録である過去帳が作られ始めたわけです。


過去帳

1698 元禄11年 鉄崖和尚
「阿波国豊山長谷寺観世音縁起」

阿波国豊山長谷寺観世音縁起

1754 宝暦4年 金毘羅社再建


安政三年宝塔金銀元銀并ニ納方出方扣

1776 安永5年 鐘楼再建。毘沙門堂の東側に作られました。
いまある鐘楼は、これを移築したものです。

詳しくは書きませんが、この頃、幾度も藩主が参拝に訪れました。

1827 文政10年 宝塔建立許可。
三重塔建立の申請をしたのが文政7年。
資金集めが始まります。

右の縦長の写真は募金や経費の出入りを記録した帳簿。
1857 安政4年 三重塔の一層が完成しました。30年かけて、ようやく一層だけ。そして結局一層のみしかできませんでした。時代は幕末維新の混乱期に向かっていました。
いま毘沙門堂と呼ばれている建物がそれです。堂内に残る塔の模型に面影を残すのみです。(参)「百日紅」44号


↑地下には仏舎利のかわりに石に真言をびっしり書き込んだ「経石」が納められました。塔(ストーパ)は本来釈迦の墓地の謂です。墓地だから遺骨を納めるわけです。


毘沙門堂に置かれた塔の模型
1860 万延1年 藩の命令により、藩内の主要寺院が天台宗に改宗させられました。
このとき長谷寺も天台宗に改宗させられ、寺号も観海院と改めさせられました。
真言宗の結衆を離れましたから、この頃の大法会は長谷寺だけで行なっていたようです。
しかし明治維新まであとわずかに8年。この処置はうやむやなものになってしまいました。


観海院の箱書き






1868 明治1年 神仏分離令で、それまで一体だった寺と金毘羅神社が、画然と分けられてしまいました。
観音堂や仁王門、鐘楼などの建っている土地が、金毘羅神社のものになってしまいました。


現在の仁王門

1882 明治15年 家別過去帳が作られます。

年ごとの過去帳が作られて200年。各檀家で年忌法要が一般的に行なわれるようになったのでしょうか。年忌を知らせるためには、家別の過去帳がどうしても必要になります。

檀家を訪ね、位牌を全て書き写しました。大変な事業だっただろうと想像するのみです。
位牌が古くなって、読み間違いもありました。
1991年のデータペース化の作業のとき、間違いをたくさん見つけました。


現在は、祐信の書斎の一角にある過去帳

1898 明治22年 観音堂移転
裏山の中腹から、いまの観音堂の南、撫養街道に面したあたりに移転しました。

1909 明治42年 鐘楼移転。
建物の移転では仁王門を残すのみとなりましたが、すでに神社側が登記を済ませていたので、結局移転できないまま今に至っています。
仁王さんは追い出され、観音堂に仮住まいの暮らしが続いています。


現在の鐘楼

1926 大正15年 裏山にミニ西国霊場完成。

地域の人々の願いを集めて、西国霊場が創られました。
花祭りの縁日には、それぞれのお堂の寄進者が、そのお堂の前で接待をし、多くの参詣人が集まりました。

戦後、一度は廃れてしまいましたが、近年、復興し、
参拝者が戻り始めています。



西国記念碑

1934 昭和9年 観音堂を現在地に移転
1942 昭和17年

「金属類回収令」により、梵鐘と半鐘を供出。

このときは、多くの仏器も供出の憂き目に会い、かわりに陶器の仏器を使いました。このときの仏器は今も残っています。

写真は、市内の供出記念法要の時のもの


供出された鐘

1945 昭和20年 松茂航空隊員120名、長谷寺を宿舎として利用。

松茂にあった海軍の飛行場が空襲にあい、航空隊員は民家や寺に分宿。長谷寺の北にある餘庄須に新しい宿舎が作られました。この海軍の宿舎は、敗戦直後、撫養商業高校の校舎として使われました。
また、そこには、後に市営住宅が建てられ、「平和荘」と名づけられました。

練習機白菊]

1985 昭和60 新本堂完成。

旧本堂(方丈)と薬師堂(大師堂)を解体し、ひとまわり大きな本堂に生まれ変わりました。

法要は、主にここで行なわれます。

左手前の玄関は、旧来のもの



1995年 平成6年 イチョウの木が鳴門市天然記念物に指定。